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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

寛容の知恵

万民ニュース   第 138 号
3843
2014. 04. 27


「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」(ヤコブ3:17)


堂会長イ・ジェロク牧師


私たちが私心を捨てて、真理である神のみことばどおり行うほど、天の知恵が臨んで、霊的な余裕ができる。正しいことをたやすく見分けられ、他人に善を施すことが難しくない。これは、当座は損をしても、神がより大きい祝福として報いてくださることを信じるからであり、もしそうでなくても、真理を行うほうが幸せだからである。

このような人は神が喜ばれることを行い、祝福される。また、真理の道が明らかに見えるので、他の人の問題にも明快に答えを提示することができる。これが寛容の知恵によって得た実である。それでは、どうすれば寛容の知恵が受けられるだろうか?


1. 寛容の霊的意味

寛容とは、辞書で「心が広くて、よく人の言動を受け入れること。」と定義している。霊的な意味は「真理が心に豊かに臨み、同時に真理の自由があるので、自分が持っているものをすべて渡せる心」である。

私たちが物質はもちろん、時間と努力、関心、仕え、いのちまでも渡せるには、真理が心にぎっしり臨まなければならない。豊かな真理の心ですべてを渡してくださった最も良いモデルは、まさにイエス様である。神の御子であるイエス様には、何の罪も咎もなかった。その心が完全な真理そのものだったし、神のみこころどおり生きながら、ご自分のすべてを渡してくださった。

イエス様はまともに召し上がることも休むこともできなくても、御国の福音を伝えて、病気の者をいやされた。魂のために多くの労苦と涙を注いで、結局はいのちまで渡してくださったのだ。罪も咎もない方が、罪によって永遠に死ぬしかない人々を救うために、代わりに十字架につけられた。イエス様は豊かな真理の心でご自分をすべて渡されることによって数えきれないほどの魂を救い、天国へと導かれたのである。

皆さんはどれだけ自分を渡しただろうか? 仮に大きい損をしても、自分のものを与えることができるだろうか? 自分の利益と好み、自尊心、主張などにこだわるなら、自分を渡せないのである。


2. 寛容の知恵によって受ける祝福

この世では、自分のものを他人に渡さないで、よく守ってこそ賢いと言われている。一つを与えれば、それ以上を受けてこそ賢いと思う。しかし、<使徒20:35>には「主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われた」とある。主の御名によって施すことが祝福される道であり、まことの知恵なのだ。

自分のものを豊かに渡して仕えたとき、決して損をするのではなく、当面の利益とは比べられない、人の心をつかむようになる。まさにこれが豊かな寛容の心から出た知恵の実なのである。

心に憎しみ、憤り、欲、移り変わることなど、真理に逆らうものがあるほど、ゆったりして寛大な姿になれない。だから寛容を、ただ「自分をすべて渡すこと」ではなく「真理が心に豊かに臨み、同時に真理の自由があるので、自分が持っているものをすべて渡せる心」と言ったのである。

創世記13章を読むと、アブラハムとおいのロトが神に祝福されて家畜が多くなると、限られた地で水と草を得なければならなかったので、家畜の牧者たちの間に争いが起こった。この時、アブラハムはロトに「もしあなたが 左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」(創世記13:9)と言う。つまり、ロトが行く先を選ぶなら、自分は他のところに行くという意味である。するとロトは自分の利益を追って、どこもよく潤っている肥えた地を選んで離れて行った。

人としての道理を言うなら、当然ロトは目下なので、牧者たちが争ったと聞いたなら、おじが気を遣わないように先に対応しなければならなかっただろう。だがアブラハムは、恵みも知らずに離れて行ったロトのことを何とも思わなかった。自分のものを渡して、もっとくれと言われても与えられる、広い心だったからである。

それなら、アブラハムがロトに譲ったので損をしただろうか? そうではない。神は善を行った彼に、東西南北、見渡している地全部と、地のちりのように数えることができないほどの子孫を与えようと約束された。アブラハムはあふれるほど寛容を施し、自分が当然すべきこと以上の善を行ったので、このような祝福が受けられる公義が成り立ったのである。


3. 寛容から来る真理の自由

<ヨハネ8:32>に「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」とある。真理である神のみことばどおり生きられない人は、真理が鎖のように思われるが、真理を愛して行う人は自由を感じられる。

たとえば、犯罪者は警察を見ればギクッとするが、善良な市民は警察を見ても怖くない。むしろ有難くて心強いのである。同じように、真理の中に生きている人は神の法が愛であり、祝福の通路であることを知っているので喜ぶ。

安息日を完全に守る信仰がない人は「安息日を守りなさい。安息日には営業してはいけない。世の娯楽を求めてはいけない」というみことばが鎖のようにきつく感じられる。しかし、心の芯から喜んで安息日を守る人はどうだろうか? 主日を守るなら神の霊的主権を認めることだから、平安と祝福が臨むということを信じるので、主日が待ち遠しくなる。だから、安息日を守りなさいという真理のみことばを行いながら、喜んで自由を得るようになる。

また別の例として、私たちが憎しみを捨て去れば、心が軽くて幸せになる。真理が罪のくびきを解いて、自由にしてくれるからである。真理が心に満ちているなら、自分だけでなく相手にも自由を与えることができる。相手が真理のとおり生きていないからといって、自分の思いに合わせてさばいて罪に定めるのではなく、真理のとおり生きられるように助けるのだ。

心に真理が満ちているとは、真理を頭で知っているという意味ではない。<第一コリント8:1>に「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」とある。真理を頭だけで知っている人は、極めて小さいことを知っても、まるですべてを知っているかのように錯覚する。こういう人は相手に仕えられたい姿を見れば、すぐさばいて罪に定める。「あの人は本当に心が高いな!」と思うのだ。しかし、自分が「兄弟をさばいてはならない」というみことばに反していることは悟れない。

真理が満ちていて寛容の心になれば、相手の信仰の量りに合わせて見てあげられる。みことばで正しい正しくないが見分けられるが、相手の過ちと真理に逆らう姿を愛でいだいておおってあげる。過去に数多くの過ちがあった自分も主の愛と憐れみをいただいたように、相手を憐れむのである。

そして、人の心を痛めない。たとえ相手が悪を行うとしても、さばいて罪に定めないで、その人を尊いひとりの魂と思って真理に導き入れてあげる。このような心に変えられるとき、相手をいのちに導く知恵を得るようになる。これが「寛容から来る知恵」である。

愛する聖徒の皆さん、
心を真理で満たして寛容になれば、神の愛があふれて豊かになる。自分のものを分け与えても惜しくないし、他の人が自分よりうまくいくのを見ても、ねたんだりそねんだりしない。相手がもっとうまくやれるように助けることもできるし、さらに多くを味わうように自分のものまで渡せるのだ。

皆さんも寛容の知恵をいただいて、与えるほうが受けるほうより幸いであり、仕える者が偉い者になることを悟って、真理による自由を得られるように、主の御名によって祝福して祈る。


 

 

 
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