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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

温順の知恵

万民ニュース   第 139 号
3879
2014. 05. 25


「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」(ヤコブ3:17)


堂会長イ・ジェロク牧師




誰でも信仰によって罪と悪を捨て去って聖められ、平和を追い求めるなら、寛容と温順の実を結ぶことができる。心が真理に変えられるにつれて、豊かに与える心、余裕が生じる。寛容と温順はその中で臨む徳である。それでは、温順の知恵とは何だろうか?

温順とは「善で美しい心の香が言葉と行いの実として現れること」である。心が善と真理で満ちているなら、表でも甘い水だけを出す口の実と美しい行いの実が現れる。善だからといって、ただ優しくてやわらかいだけでなく、強く雄々しい面もある。また、真理にあってあれもこれも正しいとき、御霊によって見分けて、神がさらに喜ばれるほうを選べる深い善の次元である。このような温順の特徴を大きく三つ調べてみよう。


1. どんな状況でも真理によって問題の核心を見分けて、相手の心を安らがせる

霊的な善と真理が心に満ちている人には、闇を退ける霊的な権威がある。したがって、このような人は相談に乗る時も、問題の核心を見分けて、相手の心をすっきり軽くさせられる。私心があれば自分の利益や感情が先に立って目がさえぎられるが、私心がなければ問題解決の道を見つけることができる。私心とは、自分の欲を求める心である。自分のもの、自分の家族、名誉、権勢、自尊心、安逸を求めるすべてである。

ルカの福音書12章で、ある人が遺産を分ける問題でイエス様のもとに来る。彼はイエス様に、親の遺産を分けるように兄弟に話してくださいとお願いする。イエス様はこの時、遺産をどう分けたのか、兄弟がいくら多く分けるべきのか、聞かれなかった。彼の話を聞いたイエス様は、意外なことに「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(ルカ12:15)と言われる。

これは、彼が貪欲を捨てない限り、これからも兄弟の間で気まずいことが起こりうるからだ。それで、イエス様は根本的な解決方法を悟らせてくださった。その人が祝福される霊的な答えを下さったのだ。このように温順の心を耕してこそ、すべての問題の根本が見えてくる。


2. つらい状況に置かれた時もみこころを悟って満ち足りる

<ピリピ4:11-12>に「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」とある。このように温順の心を耕しているなら、すべてが豊かな時だけでなく、つらい状況がやって来ても、心が揺れ動かない。「こうだから大変だ。ああだからつらい」と気を落としてつぶやくのではなく、感謝と喜びをもってすべての状況に耐えていく。自分が当面している問題より、心に満ちている神の恵みのほうが大きいからだ。

ある人は自分の思いどおり事が解決されなかったり、つらい状況になると、不平不満をぶちまけて、人のせいにして非難したりもする。だが、温順の心を耕した人は、現実的につらい状況に置かれても、心の余裕を失うことはない。うろたえて悲しむのではなく、黙って神のみこころを悟ろうとする。神の愛を確信するのでいつも安らかだし、その状況で最善を選んで行うようになる。

私たちが温順の心をもって、すべてのことに満ち足りて善を行っていけば、聖霊様が行く先を導かれる。だから、今進むのがみこころなのか、あるいは一歩後ろに退くのがみこころなのかを見分けられるのだ。


3. みことばに従うだけでなく当然すべきこと以上にする

お母さんが出かけるとき、小さい子どもに「行ってくるから弟の面倒をよく見て、宿題もしておくのよ」と言った。お母さんが帰ってみると、弟の面倒と宿題はもちろん、掃除まできれいにしておいた。宿題をしてから遊んでもいいのに、お母さんの心を推し量り、自分のすべきこと以上をしたのだ。親としてはどれほどけなげでかわいいだろうか。

このように、温順の心を耕した人は神を愛するからみことばどおり聞き従う。それだけでなく、聖霊に導かれてすべてのことにより良いことを見分けて行い、一つを命じられても、神のお心に合わせて二つ、三つ、あるいはそれ以上をやり遂げる。神はこのような人をご覧になると非常に喜ばれて「わたしの心にかなっている」と言われる。

信仰生活をしていると、選択の岐路に立つ時が多い。たとえば、一方は真理でもう一方は真理に逆らうなら、当然真理のほうを選ばなければならない。ところが、二つとも真理なら、ほとんどが自分の好きなほうを選ぶ。だが、温順の心を耕した人は神にさらに栄光をささげて喜ばれるほうを選ぶ。このように、温順の知恵をいただいた人はみことばに聞き従うだけでなく、当然すべきこと以上をするのだ。


4. 温順の知恵が臨んだ使徒パウロ

使徒パウロの行いと告白を見れば、温順の心が豊かに臨んでいたことがわかる。彼は主を知る前も、旧約の律法を徹底的に守っていた。主に出会った後は、福音のために自分のすべてをささげて、自分が味わえることも自制した。

<第一コリント8:13>に「ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。」とある。これは「偶像にささげた肉を聖徒が食べてもよいのか」という質問に対する答えでもある。

もちろん、食べる前に偶像にささげた肉だと知ったなら、食べないほうがよい。しかし、肉の流通過程をいちいち確認できなくて、やむをえず食べなければならない状況なら、食べても罪にならないのである(ローマ14章)。ただ食物として食べるだけであり、偶像礼拝に参加するのではないからだ。

しかし、信仰が弱い人の立場からは、偶像にささげたものを食べること自体がいまわしいこともある。信仰が弱い人は、信仰の強い人がそれを食べるのを見て、偶像礼拝に同調していると思うこともある。単に食物と思って食べれば関係ないが、偶像にささげた肉だと思って良心の呵責を感じながら食べれば、問題になる。「こうしたらいけないのに…」と思いながらも行うことは、敵である悪魔・サタンに訴えられる種を作るからだ(ローマ14:23)。

使徒パウロはいくらでも信仰によって食べられるが、ひょっとしてでもこれを見た人がつまずくなら、いっそ食べないと言う。仮に今後いっさい肉を食べなくても、兄弟につまずきを与えないほうを選ぶと言ったのだ。神はこのような行いを喜ばれ、他の使徒より大きい神の力を行うようにされた。御霊に明らかに感じるようにされ、知恵も加えられたので、聖徒に偶像にささげた肉だけでなく、結婚や離婚、家庭と職場での問題、御霊の賜物、聖餐式に関する問題などについて、知恵と悟りをもって明快な答えを与えられたのだ。

このように温順の知恵をいただいてこそ、神がさらに喜ばれるほうを選び、みこころを正確に見分けられ、良い美しい言葉で人々に信仰を植えつけて、真理で問題を正確に解決してあげるのだ。

愛する聖徒の皆さん、
心が善と真理で満ちて温順の知恵をいただき、甘い水だけを出す口の実、美しい行いの実を結んで神に喜ばれるように、主の御名によって祝福して祈る。


 

 

 
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