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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

あわれみと良い実とに満ちている知恵

万民ニュース   第 140 号
3765
2014. 06. 22


「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」(ヤコブ3:17)


堂会長イ・ジェロク牧師



あわれみの辞書の意味は「人をかわいそうに思う心」である。霊的には、かわいそうに思うだけでなく、「ひとりの魂を全世界より尊く思う心」のことを言う。いくら見込みのないように見える魂であっても、いのちがある限りあきらめないで、最後まで救いに導こうとする心である。このように神にあってあわれみを施したとき、聖霊が働かれて得るすべての実は「良い実」となるので、あわれみと良い実は一つの連れ合いになる。それでは、良い実が満ちているあわれみの知恵について調べてみよう。


1. あわれみを通して結ばれた良い実

神のお心はあわれみそのものである。仮に神が罪人を赦さないで、律法に従って処理されたなら、どこの誰が生き残れるだろうか。愛なる神があわれみを施されるので、私たちは悔い改める機会を得て、救われることができるのだ。

このような神の御姿であるイエス様のお心もやはり、あわれみそのものである。イエス様について「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。」と記されている(マタイ12:20)。いたんだ葦のように心が罪に染まってしまった人や、あるいはくすぶる燈心のように救いの可能性が小さい人も、イエス様は最後まで寛容を示してくださった。取税人や遊女のようにさげすまれていた罪人にも福音を伝えられた。正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来られたからである(ルカ5:32)。

イエス様はイスカリオテ・ユダにも「あなたはとうてい救われない心だなあ」と言われなかった。最後の瞬間までも彼に救いの機会を与えられた。そして、すべての人類に救いの道を開いてくださるために、十字架につけられて死なれたのだ。このような尊い血の功によって救われた数えきれない魂がまさに、イエス様が「あわれみを通して結ばれた良い実」なのである。


2. いのちを与えるあわれみの知恵

1)相手の立場で理解する赦しのあわれみ

<エペソ4:32>に「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」とある。神が私たちをあわれんで赦してくださったように、私たちも互いに赦し合いなさいということだ。あわれんで赦すには、相手の立場が理解できなければならない。自分の立場ではとうてい赦せなくても、相手の立場から理解すれば、いくらでも赦すことができる。

たとえば、主を信じない親や夫が迫害すると、相手が理解できないなら恨むようになる。迫害する相手を愛せなくて、恐れとむなしさを感じて避けたくなる。信仰のある妻の立場では正しくて当然なことも、信仰のない夫には理解できないことが多いこともありえる。だから、自分の立場から話をするなら、互いに言い争うようになり、心が傷ついて嫌な気持ちになるのだ。この時、相手が間違っているとだけ言うのでなく、相手の心を理解して、その立場で考えるとき、あわれみの知恵が与えられるのである。

2)魂にいのちを与える懲らしめのあわれみ

赦しと懲らしめは相反する言葉のようだが、実はそうではない。あわれみに属する懲らしめは、さばいて罪に定めたり、憎んだりするのではなく、愛をもってするものだからだ。神の懲らしめも同じである。私たちを愛しておられるがゆえに、過ちを犯した時に懲らしめられるのだ。罪の壁がたくさん積まれて、神が御顔をそむけられるなら、懲らしめさえない。それで「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」とあるのだ(ヘブル12:6)。

ある人は叱責を避けようと、自分の過ちを隠して、言い訳するのに汲々とする。あるいは、自分の欠けているところが明らかにされたために気を落としてしまう。しかし、完全に立ち返ったなら、神はその過ちを覚えられず、必ずその苦しみから回復させてくださる。

これとは違って、相手の過ちを知って勧めなければならないとき、愛の勧めのように装っているが、実は自分の義と枠の中で相手の心を刺してはいないのか顧みなければならない。高ぶった心で教えようとしたり、自分の思いどおりしようとすることもあるからだ。いくらみことばを引用しても、愛が込められていないなら、相手に立ち返る恵みが臨まない。

相手を悟らせて感動を与えるより、むしろ心を傷つけて力が抜けるようにしたりもする。だから、相手は自分の過ちを悟ってがんばってみようと努力していても、感情が混ざった勧めや非難を聞いて、気を落としてへたり込んでしまう。

したがって、人を勧めたり懲らしめる時は、相手の心と立場を理解するあわれみの心をもってしなければならない。その人のためにいのちでも与えられる愛の心で祈って勧めなければならないし、このような心で懲らしめる時に、いのちを与えることができるのだ。

3)相手に助けを与える施しのあわれみ

あわれみの心があるなら、暮らし向きが厳しい人を見たら、かわいそうと思うだけでなく実際に助ける。まことのあわれみとは、ことばや口先だけでなく、行いと真実をもって相手を助けるものだからである(第一ヨハネ3:18)。

神の子どもたちは福音を聞けずに知らない魂をあわれまなければならない。私たちが迫害されたり、時にはいのちが脅かされても福音を伝えるのは、このあわれみがあるからだ。また、世で失敗して病気にかかって疎外された人にも、あわれみを示さなければならない。

私たちが真実をもってあわれみを示すなら、神も私たちにあわれみを施してくださる。私たちの持ち物を分け合って仕えると、神は与えたものよりさらに豊かな祝福として返してくださる(ルカ6:38)。それで、施しをすることが知恵だと言うのだ。

施しは神が喜ばれることだが、相手をよく見分けてしなければならない。できるなら信仰の家庭に施しをするべきである。そうでなくて、酒とギャンブルにふけって仕事もしない人や、不法を行って苦境に落ちた人に施しをするなら、これはふさわしくない。かえって一緒に苦しみにあって、相手に害になることもあるからだ。


3. 良い実に満ちているあわれみの知恵

あわれみが豊かに臨むと、良い実が満ちるようになる。あわれみをもって行ったことは、聖霊が働かれて必ず美しい実として結ばれてくる。何よりも数えきれない魂を救いに導いて、尊い救いの実を得るようになる。また、あわれみをもって行った人は、自分の心の中にも良い実を結ぶようになる。悪い者に対しても最後まで善をもって行い、忍耐と善と愛の祈りで父なる神の御前にささげる香がすべて、私たちの中に結ばれる良い実なのだ。これらの実によって、この地上でも天国でも栄光を受けるようになる。

私たちの救い主イエス様は死ぬしかないすべての魂をあわれんで、十字架の苦しみを身をもって受けられたので、そのあわれみの実によって数えきれない人が救われるようになった。

愛する聖徒の皆さん、
周りに性格がとがった人、行く所ではどこでも問題を起こす人がいるなら、どんな心をもって対するだろうか?ふっとでも「あの人が教会に来なかったら・・・ほかの部署に移ったら・・・」と思ったことはないだろうか?神は私たちがあわれみと良い実とに満ちて、ひとりひとりを愛をもって顧みることを願っておられる。

行いと真実をもって隣人を愛し、砕かれたたましいを慰めて施しをし、神に喜ばれてあわれみと良い実とに満ちるように、主の御名によって祝福して祈る。


 

 

 
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