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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

えこひいきがなく、見せかけのない知恵

万民ニュース   第 141 号
4156
2014. 07. 27


「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、
えこひいきがなく、見せかけのないものです。」(ヤコブ3:17)


堂会長イ・ジェロク牧師




人が偏見や先入観を持てば、全く事実でないことについても事実だと思い込んだりする。このように「自分の気に入ったものだけの肩をもつこと」をえこひいきと言う。えこひいきがあれば、見せかけを生むようになる。誰に会おうが、どんな状況に置かれようが、見せかけとえこひいきがないとき、初めてもっと真実に近づくことができる。すべてを公正な目で見るようになり、何がまことなのか正確に見分けられるのだ。その時、水晶のように澄んで、宝石のように美しい心の目で、すべてを見抜く知恵を得るようになる。
それでは、神の子どもがえこひいきがなく、見せかけのない知恵を受けるには、どうすればよいだろうか?


1. えこひいきと見せかけがないためには、愛と憐れみの心がなければ

えこひいきがないとは「すべてを正しく正直に見られる」ということである。すべてにおいて偏らないなら、誰に対そうがいつも同じだ。容貌や経済的要素、学歴など、相手の持っている条件によって態度を変えるのではない。何をしようがえこひいきがないためには、愛と憐れみの心がなければならない。

いくらみことばを学んでも、心に愛と憐れみがなければ、正しく適用できない。たとえば、神は敵をも愛しなさいと言われているのに、自分に被害を与えたり理解できない人に会えば、愛することがやさしくない。自分の好みや性分、自分が正しいと思うことに合わせるからだ。したがって、愛と憐れみがないほど左右にそれるし、相手の言動が自分の思いに合わなければ、簡単に相手をさばいて罪に定めるようになる。

同じ人でも凸レンズで見れば太って見えるし、凹レンズで見ればスリムに見える。もしレンズに映る姿だけを見て「あなたは太っている、やせている」と言うなら、どうなるだろうか?見る人の立場からは「自分が見たとおりに言っている」と言うが、確かに実際とは違うので偽りになる。これによって相手が被害をこうむって傷つくこともあるのだ。偏見をもって相手を見るなら、その中にはどうしても偽りが混ざって出てくるしかない。

真実で愛と憐れみがある人は、相手のどんな姿を見ても非難しない。憐れみの心でかばおうとするからだ。憐れみはいのちを与える良い実を結ぶ一方で、えこひいきがあるなら、さばいて罪に定めて真実をわい曲し、いのちを失うようにする悪い実を結ぶ。

イエス様の時代のパリサイ人と律法学者たちは神のことばを教える立場にあった。彼らは自分が正しいと思って律法を解釈し、これに合わない人は罪人だと決めつけた。安息日にイエス様が病気の者をいやされると、安息日を犯したと言った。

安息日を守るようになさった神のみこころは、どんな場合でも働いてはならないという意味ではない。「霊的に安息を得なさい」という意味である。病人をいやしたり福音を伝えて魂を救うことは、当然すべき良いことである。ところが、彼らは「イエス様が安息日を犯した」とさばいて罪に定めたのだ。


2. えこひいきがあって見せかけの実を生む場合

人は、えこひいきがあるために日常でどれほど見せかけの実を生んでいるのか悟れない。親が二人の子どもを叱る時もそうだ。兄になぜけんかしたのかと聞いたら、「弟が先にたたいた」と言う。これだけ聞けば弟が悪いようだ。ところが、弟に聞いてみれば「お兄ちゃんがおもちゃを取ろうとしたから」という理由がある。

もし親が兄の話だけを聞いて弟を叱ったなら、どれほど悔しいだろうか。親が兄をえこひいきしたり、弟がいつももめ事を起こしたとすれば、兄の話だけを信じることもある。しかし、賢い親ならばすべてを正しく正直にわきまえる。

この他にも、自分の利益と思いに合わせて真実をわい曲することも多い。えこひいきがあれば、自分でも知らないうちに見せかけの言動が出てくる。たとえば、愛する人が過ちを犯したと聞けば「そんなはずがない」と信じなかったり、「それほどの理由があっただろう」と何としてでも過ちを覆ってあげようとする。一方、普段から嫌いだった人や悪い先入観がある人の噂はすぐ信じてしまう。「前にもこんな過ちを犯したのにまただね。あの人はなんだか気にくわなかった」と、その人を嫌う心を正当化したりまでする。えこひいきがあるために、事実を知ろうとするより、噂を簡単に受け入れて相手をさばくのだ。

また別の例として、向こうからやって来た人が自分の目を避けながら急いで通り過ぎるとしよう。忙しいか何か考えごとをしていたので周りが目に入らないこともある。あるいは視力が悪くて見えなかったか、化粧をしていなかったので恥ずかしくて人目を避けようとしていたかもしれない。

この時、えこひいきがあれば、悪いほうに思いやすい。「本当に失礼だ。前に頼まれたことをしてあげなかったからかな」と自分の思いと感情をもとに解釈してしまう。だから聖霊の声が聞けないし、目が隠されていて真実が見られないのだ。


3. 神の知恵をもってすべてにおいて真実になるには

第一に、弱い人に偏ることも真理にあってはえこひいきであることを覚えておかなければならない(出エジプト23:3)。利害関係に従って豊かで権勢のある人の肩を持ってもいけないが、貧しくて弱者だという理由で何が何でもその肩を持ったり、親密だからと情に偏るなら、正しい判断ができない。しばしば、強者と弱者のうち弱者の肩を持つことが正しいと思うが、これは正しくない。ただみことばを基準に見分けて判断しなければならない。どちらにも偏らないで、愛と憐れみの心で正確にわきまえなければならないのだ。

第二、直接見て聞いたことでないなら、他人の話だけ聞いてさばいてはならない。私たちに先入観や偏見があれば、直接見て聞いても、真実を見分けるのが難しい。まして他人の話だけを聞いて下手にさばいたり、推測だけで断定するなら、大きい過ちを犯すこともある。だから、すべてにおいて見て聞いて判断するとき、身を慎まなければならない。

第三に、自分の感情と私心を捨てなければならない。人は、自分と親しかったり、自分によくしてくれる人には、より緩やかな定規を適用する。たとえば、親しくない人が原則を守らないなら「高ぶって秩序を破っている」と言うが、家族や親しい人が原則を破るなら「事情があったんだろう」と思う。また、会議の時、自分が嫌いな人が意見を出せば否定的な視角から見て、友好的な人が意見を出せば柔軟な姿勢を取る。

したがって、すべてにおいて自分の感情や私心が働いていないのか顧みなければならない。近い人と関係のあることならさらに公平で偏らずに話をして、行わなければならない。特に務めが上の人なら、さらに身を慎んで自制しなければならない。偏らないように見分けたので、「これくらいは大丈夫だろう」と思ったことも、他人の目には情と欲のように思えることもあるからだ。

愛する聖徒の皆さん、
イエス様は弟子たちに「偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(マタイ7:5)と言われた。自分には梁のように大きい罪がありながら相手のちりに目をつけるのは、霊の愛がないからだ。罪と悪を捨てて聖められると、人の心や事の前後の状況までも正確に見分けることができる。したがって、どんなことでも善をもって見て感じて考えることによって、すべてを正しく正直にわきまえられるよう、主の御名によって祈る。


 

 

 
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