Manmin News, Manmin, Manmin Central Church, drLee, jae-rock Lee
 
 

光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
New Update
光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」

万民ニュース   第 147 号
4063
2015. 01. 25


「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、【主】の安息である。・・・それゆえ、【主】は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」 (出エジプト20:8-11)



堂会長イ・ジェロク牧師





安息日とは、主にあって安息を味わう日、すなわち主にあってゆっくり休む日という意味です。

安息日の由来を調べると、三位一体の神が六日間の天地創造を終えて休まれたことから始まっています。<創世記2:3>に「神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」とあります。

したがって、御父の神が主体となって働かれた旧約時代には、日曜日から始めて七番目の日である土曜日を安息日として守りました。けれど新約時代になってからは、日曜日を安息日として守るようになりました。

このように安息日が土曜日から日曜日に変わった理由は何であり、私たちがどうすれば安息日を覚えてこれを聖なる日として守れるでしょうか?


1.新約時代に安息日が主日になった理由

今日もユダヤ人は相変わらず土曜日を安息日として守っています。しかし、イエス・キリストを信じて救われた神の子どもたちは日曜日を安息日として守り、この日を主日、すなわち主の日と呼んでいます。

このように日曜日を安息日として守る理由は、イエス・キリストにあってまことの安息を味わうようになった日がまさに日曜日だからです。それなら、イエス・キリストによってまことの安息を味わうようになったとは、どんな意味でしょうか?

最初の人アダムが罪を犯してから、すべての人は罪人として生まれるので、まことの安息がありませんでした。罪の支配者である悪魔・サタンの奴隷になり、つらい人生を送って、罪の重荷によってそのたましいが抑えられていたのです。それで、御父の神はイエス・キリストをこの地上に遣わして、全人類の罪を贖うようにされました。

神の御子でありながら人となってこの地上に来られたイエス様は、救い主の使命を全うするために、何の罪もないのにむちで打たれ、いばらの冠をかぶり、手と足に釘を打たれて、木の十字架にかけられなければなりませんでした。結局、水と血をすべて注ぎ出して死なれましたが、葬られて三日目に、死の力を打ち破ってよみがえられました。

誰でもこのことを信じてイエス・キリストを受け入れれば、罪から自由になり、心にまことの安息を味わって、やがて天国にとどまるようになります。罪人である全人類に希望を与え、まことの安息と喜びを下さるために十字架につけられて死なれ、よみがえられた日がまさに日曜日なのです。したがって、イエス・キリストによって救われた神の子どもたちは日曜日を安息日として守らなければなりません。

ところで、旧約聖書を読むとこのようなことがすでに暗示されているのです。<レビ記23:10-12>に「イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたに与えようとしている地に、あなたがたが入り、収穫を刈り入れるときは、収穫の初穂の束を祭司のところに持って来る。祭司は、あなたがたが受け入れられるために、その束を【主】に向かって揺り動かす。祭司は安息日の翌日、それを揺り動かさなければならない。あなたがたは、束を揺り動かすその日に、【主】への全焼のいけにえとして、一歳の傷のない雄の子羊をささげる。」とあります。

エジプトから出たイスラエルの民に神が下さった乳と蜜の流れるカナンの地に入って、収穫の初穂の束をもっていけにえをささげる日が安息日の翌日だったのです。ここで「収穫の初穂」とは、霊的に復活の初穂である主を意味し、「一歳の傷のない雄の子羊」もまた、神の小羊であるイエス・キリストを意味しています。だからこの節は、安息日の翌日、すなわち日曜日に、なだめの供え物となられた主が復活の初穂として出てこられることによって、主を信じるすべての人に復活と安息を与えることを表しているのです。


2.安息日を聖なる日として守るには

1)主にあって霊的な安息を味わわなければなりません

安息とは、何もしないで家で休んだり娯楽を楽しんだりすることを意味しているのではありません。肉的な安息は体の疲れを取ってくれますが、いのちを与えることはできません。

神が望んでおられる安息は霊的な休み、すなわちまことの安息です。世の仕事に縛られないで、主のからだなる教会に来て、霊とまことによって礼拝をささげ、みことばを聞いて聖徒と交わりながら、真理にあって心にまことの喜びと平安を得て、霊的な成長を追求することを言います。

したがって、主日には午前の礼拝だけでなく午後の礼拝もささげて、完全に安息日を守らなければなりません。安息日の主である主と完全に霊的に交わってこそ、まことの安息になるからです。

このように神の霊的な主権を認めて、安息日を聖なる日として守ると、神は約束されたとおり祝福してくださいます。聖徒を一週間見守って、試練や患難から守ってくださり、事故や病気、危険から防いで、すべてを働かせて益としてくださり、すべての点で栄えるように祝福されるのです。

2)売買行為をしてはなりません

<ネヘミヤ13:15-18>を読むと、イスラエルの民が神の戒めを破って安息日にも仕事をして売買したので、神に守られず災いにあったということを悟らせてくれる場面があります。

ネヘミヤは安息日に仕事をしたり、異邦人と一緒に売買することを徹底的に禁じました。それどころか、安息日にエルサレムの外で夜を過ごしている異国の商人まで追い出してしまいました。これは、ひょっとしてでも安息日を汚す可能性までなくすためでした。

それでは、聖徒が主日を聖なる日として守るために仕事をしたり売買をしないなら、それによって損をこうむるでしょうか?そうではありません。神は全知全能なので、愛する子どもが戒めを守り行えば、六日間さらに祝福して必ず報いてくださいます。

ところで、主日に売買行為を許す特別な場合があります。たとえば、聖歌隊員が食事をしなければならないのに、教会に食堂がないなら、外で食べてもかまいません。これは主のために提供することだからです。その他にも、聖徒が礼拝を恵み深くささげられるように教会で売店を運営することは可能です。ただしその利益は個人が使ってはならず、施しや宣教など良いわざに使わなければなりません。

また、まだ信仰が弱くて主日に結婚式を挙げる人がいるなら、主日礼拝をささげた後、結婚式に参加してもかまいません。心から神と交わって主日を守り、同時に兄弟のために祝ってあげてもかまわないということです。これは、安息日を汚すのではなく、全世界よりも尊いひとりの魂がひょっとしてでもさびしく思わないようにと配慮することなのです。

マタイの福音書12章を読むと、イエス様を訴えようと「安息日にいやすのは正しいことでしょうか」と聞く人々がいました。するとイエス様は「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。」と言われ、安息日に良いことをすることは正しいと答えられました。

したがって、病人を顧みている医師や看護師、国家と社会の安寧と秩序を守る軍人、警察など特殊な職業の人々が主日に働くのは善を行うことなので、主日礼拝をささげて業務を処理するからといって、罪だと言わないのです。愛で律法を全うされた主にあって、真理による自由を味わいますように。

愛する聖徒の皆さん、
安息日を覚えて聖なる日として守ることは信仰生活の基本であり、神の霊的な主権を認めることです。イエス・キリストを受け入れて主日を聖なる日として守り、神の子どもとされた特権と祝福をいただいて思いきり栄光を帰されますように、主の御名によって祈ります。


 

 

 
よく読まれている記事
   

 
総合アクセスランキング
   

 


万民ニュース, 万民, 万民教会, 万民中央教会, イ・ジェロク牧師, drLee