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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

「姦淫してはならない」

万民ニュース   第 150 号
4669
2015. 04. 26


「姦淫してはならない。」(出エジプト20:14)



堂会長イ・ジェロク牧師






辞書で「姦淫」という単語を調べると「男女が不倫な肉体関係を結ぶこと」と書いてあります。以前、姦淫はとても悪い罪と思われていました。しかし、今日は人の良心が鈍くなって罪の意識が薄れ、簡単に行いとして現れるのが見られます。

このように世に罪と悪がはびこっていても、神の子どもはいつも目を覚ましていて、光の中を歩まなければなりません(ローマ13:12)。十戒のうち「姦淫してはならない。」という第七戒には、単に行いとしての姦淫を禁じられただけでなく、もっと深い霊的な意味が込められています。


1.肉的な姦淫をしてはなりません

聖書は行いとしての姦淫について、代表的な肉の行いであって、救いさえ受けられないと強調しています(ガラテヤ5:19-21)。<第一コリント6:9-10>には「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。」とあります。

もちろん、まだ真理をよく知らない初心の者なら、神も悔い改める機会を与えられることもあります。しかし、ある程度真理を知っている人がこのような明白な肉の行いを犯す時は、悔い改めの霊さえ受けにくいです。<レビ20:10>には「人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。」と警戒のみことばがあります。

このように婚姻関係でない男女間のことだけでなく、動物とあるいは同性間で犯す罪についても、聖書では厳しく禁じています。これは死に至らないように肉体的な罪を厳しく禁じられる神の愛であることを悟って、決して世の風潮を追って自分を汚すことがあってはなりません。


2.心の姦淫も捨てなければなりません

<マタイ5:27-28>でイエス様は、情欲をいだいて女を見るだけでも、すでに姦淫したと言われています。

すべての肉の行いがそうであるように、人が行いで罪を犯すまでには、まず心に罪と悪をいだく過程があります。心で憎んでいるから相手に害を与えるように、心に怒りをいだくから憤りを現すように、心に情欲をいだくと、結局行いとしての姦淫に発展したりもします。したがって、心に情欲をいだいているだけでもすでに姦淫したのであり、罪の根は同じであることがわかります。

ある人は「人の心から姦淫は捨てられない。捨てようと努力するだけだ」と教えますが、人としてはできなくても、祈って断食しながら神によって強くされるなら、心の罪の性質も捨てることができるのです。

イエス様は私たちの心と思いで犯す罪まで赦してくださるために、頭にいばらの冠をかぶって尊い血を注ぎ出されました。また、神が聖霊を遣わして助けてくださるので、心から罪の性質を引き抜いてしまえば、真理に逆らうことが全く思い浮かばないのです。もちろん罪を捨てる過程では同じ罪の性質が続いて出てくるようですが、みことばを信じて従って罪と悪を捨てようとするなら、決して同じ状態にとどまっているのではありません。

玉ネギの皮をむいてもまた皮が出てきますが、続けてむいていけば結局何も残らなくなるように、罪の性質も同じです。信仰によって望む時は気を落としません。努力するほど変えられて、結局完全に聖められることを信じて、望みを持って走って行かなければなりません。

このように努力する過程で、ひょっとして一瞬姦淫の思いが働くことがあっても、この時、神が姦淫したと罪に定められません。思いが働いたことを続けて想像して発展させていく時が問題です。自分の罪の性質を悟れば直ちに悔い改めて、完全に聖められようと努力する時は、神が勝利できるようにもっと恵みを与え、強くしてくださるのです。


3.霊的な姦淫をしてはなりません

肉体の姦淫と心の姦淫は肉的な意味の姦淫です。このような肉的な姦淫よりもっと怖いのが霊的な姦淫です。霊的な姦淫とは、神を信じると言って、神より世のほうを愛すること」を意味します。

<コロサイ3:5-6>に「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。このようなことのために、神の怒りが下るのです。」とあります。

聖霊を受けて神のみわざを体験し、信仰があると言っても、むさぼりを捨てないなら、世を神より愛しているのが見られます。むさぼりがあれば霊的に偶像礼拝を生み、さらに進んで霊的な姦淫になります。

それでは、第七戒の「霊的な姦淫」と第二戒の「偶像礼拝」とはどう違うのでしょうか? 霊的な意味の偶像とは、神より愛しているすべてのもののことを言います。神を全く知らない人が何かの形を作って、神として仕えることが肉的な意味の偶像なら、神を信じているがまだ信仰が弱くて、世を神より愛することは霊的な意味の偶像です。

初心の者の時は信仰が弱いので、神より金や名誉、家族のほうを愛しますが、これが霊的な偶像礼拝です。しかし、みことばを聞いて祈りながら、聖書が真実であり、天国と地獄を信じて、神を第一に愛するために努力しなければならないことを悟ります。このように確かな信仰が生じたのに、相変わらず神より世のほうを愛して、闇に属することを求めるなら、神の愛を捨てるということであり、霊的な姦淫になります。

聖書には、イスラエルの民と神との関係を親と子、または夫と妻の関係として表現することもあります。心を尽くして愛し合おうと約束した夫婦のようなものだということです。ところが、イスラエルの歴史を見れば、民が神との契約を破って異国の神に仕えたことがよくありました。彼らは数多くの不思議としるしを見せてくださった神をよく知っていましたが、自分の欲に引かれて誘惑されると、異邦人の偶像を受け入れて仕えたのです。このような偶像礼拝が霊的な姦淫です(第一歴代5:25)。

一例として、北イスラエルは偶像に仕えて霊的に姦淫し、神に捨てられて滅ぼされましたが、南ユダもやはり、これを見ても悔い改めないで、偶像に仕え続けました。このように姦淫の罪を犯したイスラエルは、結局異邦人の剣によって滅ぼされました(エレミヤ3:8)。

今日の場合、神の子どもたちは主の花嫁です(第二コリント11:2)。ところが、主を信じて聖霊を受けて主を「私の花婿」と言いながらも、世を愛して真理に逆らうものと妥協するなら、これは霊的な姦淫になります(ヤコブ4:4)。主を裏切って姦淫した人を主の花嫁とは言えないし、やがて主との婚宴にあずかることもできません。それで「霊的な姦淫のほうが肉的な姦淫よりもっと怖い罪」と言ったのです。

たとえば、弟が兄に汚い言葉を言って唾を吐いたとすれば、それでも悔い改めると赦される余地が少しはありますが、父親にそんな行動をしたとすれば、これはあまりにも人の道理に外れた行為で、赦されがたいことです。

このように霊的な姦淫が限界を超えれば、祈っても答えられないし、神と遠ざかるので世にさらに染まってしまい、主をもう一度十字架にかけて恥辱を与える罪を犯すようになるので、結局死の道に行くのです(ヘブル6章、10章)。

愛する聖徒の皆さん、
肉的な姦淫はもちろん、霊的な姦淫とも全くかかわりなく、真理だけを慕って心に満たしていき、傷も汚れもない完全な主の花嫁となって喜んで婚宴にあずかれますように、主の御名によって祝福して祈ります。


 

 

 
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