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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

「盗んではならない」

万民ニュース   第 151 号
3974
2015. 05. 24


「盗んではならない。」 (出エジプト20:15)



堂会長イ・ジェロク牧師






もしある人に「あなたは泥棒です」と言うなら、非常に不快になってぬれぎぬだと思うでしょう。自分の物ではない物を奪ったり、こっそり持って行くのが盗みであり、これは小さい罪ではないということをよく知っているからです。

しかし、多くの人が実際に盗んでいるのに認めようとしません。自ら罪を犯していながらも罪だと悟れないので、悔い改めることもできないのです。はたして十戒のうち第八戒「盗んではならない。」というみことばには、どんな意味が込められているのでしょうか?


1. 他人の物を取る肉的な盗み

ひょっとして日常生活で持ち主の許しなしに物を持って行って使うことがあるでしょうか?互いに親しくて気がねがない間や、安くてささいな物の場合、わざわざ相手の許しを得なくても大丈夫と思うこともあります。それで良心の呵責を感じることなく、やむをえない状況で借りて行って、すぐ返さないのです。

しかし、このようなことを厳密に真理で見分けるなら、物質的な損害を与えるだけでなく、相手を無視する、礼儀に反する行動です。いくらささいな物でも、また親しい関係であっても、持ち主の許しなしに使ったとすれば、神の御目には盗みと言えるのです。

ある人は必要な物があれば、周りの人に簡単に「ちょうだい」とか「貸して」と言います。ところが、借りた後、全部使ってしまったので返せないこともあるし、返したとしてもその物を使ったので、その分相手に損害を与えることになるのです。本当に良心がきよい人は、いくらささいなものでも、他人の物を取ったとき、呵責を感じます。

次に、盗んだり奪ったりしたものでなくても、他人の物を不当に取った時は、盗みになります。たとえば、自分の地位や権力を利用してわいろを受け取ったり、商売をしている人がとんでもない価格で売って不当な利益を得た時も、善良な人は必ず良心の呵責を感じます。たとえ相手の物をこっそり盗んできたのではないとしても、自分が正当に受けるべきものではないものを得たので、厳密に言えばこれも盗みに当たるのです。


2. 神のものを取る霊的な盗み

神のものを盗んだ時は、救いとも直接かかわりがあります。イエス様の弟子のうちイスカリオテ・ユダは財政を盗むことで結局サタンのしわざを受けて、イエス様を売って悔い改めの霊も受けられず、自殺して惨めな最期を迎えてしまいました。

今日も、教会に通っていると言いながら、神の財政に手をつける場合があります。信仰生活をしていて務めを果たしていても、自分がどれほど恐ろしい罪を犯しているのか悟れないのです。ひょっとして人前に現れていないので当座懲らしめを受けてはいないとしても、神がご覧になっておられて、時になれば公義に従って代価を払うのですから、それはかえってさらに恐ろしいことです。もし悔い改めないでいて神のものを盗んだ者になって七年患難に落ちるなら、どれほど胸の痛むことでしょうか。

献金そのものを盗まないとしても、教会の物品や財政をむやみに使うことも、やはり神のものを盗むことです。したがって、教会組織の会費や賛助はもちろん、事務用品を個人の用途に使ってはなりません。教会の財政で購入した物品を浪費すること、また残った財政を返さずに他の用途に使うことも、神の財政を勝手に使ったことになります。

私的な用事で教会の電話や備品を使うのも同じです。この他にも、子どもたちが献金封筒や週報、教会新聞などをいたずらで折ったり破ることもあってはなりません。これらのことは神との間に隔ての壁になることもあります。

特に十分の一献金と奉納物を盗むことについて、神は厳しく警戒しておられます。十分の一献金は神の物的主権を認めて、収入の十分の一を神にささげることであり、私たちの人生をつかさどられる神を信じて認めますという証拠のようなものです。神を信じながらも十分の一献金をしないなら、神のものを盗んだことなので、呪いが臨みます(マラキ3:8-9)。十分の一献金をささげないから呪われるのではなく、サタンが訴えても神が守ることがおできにならなくなるので、物質の困難にあって、試練や患難、病気などに見舞われるのです。

十分の一献金とは、月給だけでなく、全体の収入から十分の一をささげることです。副業で得た収入、あるいはお小遣いやプレゼントとしてもらったものも収入なので、その十分の一を計算してささげなければなりません。ところが、ある人は副収入は除いて給与だけで計算したり、給与からもいろいろな控除を差し引いて、手取り額だけで十分の一献金をしたりします。また、十分の一献金という名目でささげないで、そこから宣教費や施し献金などをすることもあります。このような場合は、結局十分の一献金を盗んだことになるのです。

次に、感謝献金に関することです。神の子どもたちには感謝する条件がたくさんあります。救われて天国に行き、尊い務めを受けて報いを積むだけでなく、神がすべてのことにおいて守って祝福してくださるので感謝です。また、困難や訓練の中でも、すべてを働かせて良い実を結ばせてくださることを信じるので感謝です。したがって、毎週主日には感謝献金をささげ、例祭や特別な感謝の条件がある時は、特別にささげます。

これは人の道理としても当然のことです。他人に世話になったり恵みを受けたなら、心だけでなく行いで報いるのが当然のことです。ですから、神にも毎週守ってくださった恵みと祈りに答えてくださったことに感謝して、もっとささげたい心になるはずでしょう。

ところが、ある場合は、信仰があるといっても、感謝のささげ物を惜しみながらいやいやながらします。神の御前でそうするのは、すなわち財物への欲と世の欲で心を満たしたということです(マタイ6:24)。初心の者なら理解できますが、長く信仰生活をしながらもそんな心なら、信仰がむしろ退歩しやすいのです。したがって、当然ささげるべき奉納物を盗むなら、結局救いともかかわりがあるということなのです

もちろん、人によって信仰の量りが違って、神はそれぞれの状態と心を知っておられるので、金額の多い少ないをご覧になるのではありません(マルコ12:41-44)。神は真実な感謝と信仰の香を受けるのを望んでおられます。神に喜ばれれば、大きい祝福と感謝の条件で返していただくようになります。つまり、たましいに幸いを得て、感謝の条件があふれるようにされ、三十倍、六十倍、百倍の祝福として返してくださるのです。

霊的な盗みの中でもう一つは、神のことばを盗むことです。すなわち、神の御名によって偽りの預言をすることです。たとえば、神の御声を聞いたと言って、まるで占い師のように人の将来について語ることがあります。あるいは自分の思いの中で夢や幻を見て「神様が見せてくださった」と言うこともあります。これは神の御名をみだりに唱えることでもあります。

御霊に示されて神のみこころを悟って伝えるのはよいのですが、そのために自分が神のことばを伝える人なのか、チェックしてみる必要があります。聖なる神は心に悪がなくてきよい人を選んで、みこころを伝えることを望んでおられるからです。いつも身を慎む心で口を見守り、ひょっとしてでも自分の思いの中で神のことばを盗むことがあってはならないでしょう。
愛する聖徒の皆さん、

この他にも盗みには、賃金をもらっているのにちゃんと働かないこと、怠けて務めや使命をまともに果たさないで、神にささげると約束した時間を好きに使って損害を与えることなどがあります。私心とむさぼりを捨てて、正しい良心をもって真実で忠実な心で相手の利益を求め、真理にあって完全な神の子どもとなりますよう、主の御名によって祝福して祈ります。


 

 

 
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