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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

神の愛

万民ニュース   第 156 号
3485
2015. 10. 25


「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」(第一ヨハネ4:16)








堂会長イ・ジェロク牧師






神の愛のうちにいる人は恐れや乏しいことがない。知識や財物、環境など、人に言えるほどのものが全くなくても、神を信じて完全により頼むなら、すべてを満たしてくださり、将来の道に責任を負ってくださるからだ。

誰でも神の戒めを守って真理の中に生きていけば、神の愛に包まれて答えと祝福が体験できる。はたして神の愛とは具体的にどんな愛だろうか?


1. 主にあって毎日変えられるのを待ってくださる愛である

ルカの福音書15章を読むと、父の待つ心とはどんなものなのか知ることができる。ある人にふたりの息子がいた。ひとりは財産をあらかじめもらって遠い国に旅立った。成功する夢とビジョンがあったが、現実は冷酷だった。結局、世の誘惑に落ちて放蕩して財産を使い果たし、大ききんまで起こり、豚の餌さえもらえない身の上になった。

その時はじめて息子は父のことを思い出す。「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。」と言い、家へ帰ろうと思った。もちろん父が赦して受け入れてくれるだろうという期待はできなかった。物乞いと変わらない姿で帰ってきた自分を叱って、追い出してしまうかもしれないし、自分のことを忘れているかもしれない。

だが、父の心は息子の考えていたのとは全く違っていた。せがまれて財産をやったが、息子が家を出た後、父は心安らかに過ごした日がなかった。毎日、息子が心配で、暇さえあれば町の外へ通じる道を眺めながら待っていた。どれほど過ちを犯したのかが問題ではなく、愛する子なのであきらめられないのである。過ちを叱ろうと待っているのではなく、古くて汚い服を脱がせて、体を洗わせてから最も良いもので装わせて祝宴をするために待っているのだ。

それなら、天地万物を創造してご自身のかたちに人を造られた神の心はどうだろうか? すべての人が信仰によってイエス・キリストを受け入れ、聖霊を受けて真理に変えられるのを待ち、結局ご自分の心をわかってくれる時が来るのを待っておられる。また、永遠に愛を分かち合える真実の子どもになれば、最も美しい天国である新しいエルサレムに入れようと備えておかれたのだ。創造主なる神の知恵と力が満ちている天国の栄光を、愛する子どもたちとともに永遠に味わおうと、今も待っておられるのである。


2. 主にあって変えられるまで寛容を尽くしてくださる愛である

「待ち」には切なる望みが込められている。この望みが切実なほど寛容を尽くすことができる。寛容を尽くすとは、ただ座って望むとおりになるのをひたすら待っているのではない。そのための労苦と努力が伴い、果たすべきことがある。

愛なる神も、人間を耕作しながら多くの悲しみと苦しみの時間に耐えてこられた。ある聖徒は旧約聖書のイスラエルの民のことを読んで嘆いたという。神の大いなる力を見ながらもいつもつぶやき、偶像を拝んで罪を犯すのが理解できなかったのである。するとそばにいた人が「それはイスラエルの民だけでなく、私たちの変えられる前の姿です」と言ったら、何も言えなくなったという。

そのとおりだ。イスラエルの民だけでなく、人が真理に変えられる前は、いくら大きい体験をして恵みを受けても、神の愛を簡単に捨ててしまう。神をほめたたえていても、翌日にはつぶやく。大変な事があればすぐ恨んで、祈りがすみやかにかなえられないなら、受けた恵みまでこぼしてしまう。

もし以前より聖霊に満たされなくなって、世が目に映り始めたなら、まず自分の信仰を顧みなければならない。罪を捨てていく熱心が冷めてはいないのか、心を尽くしてささげていた礼拝と忠実な仕えが形式的なものに変わってしまったのではないのか、チェックしなければならない。

ところが、多くの人がこのような場合にどうするだろうか?自分を顧みるよりは、何かと人のせい、環境のせいにしようとする。とても直接恨みはできないが、それとなく神に対してさびしい心を抱いたりもする。このような時は、悪い者の話に乗りがちになり、惑わす言葉を信じたくなる。

すぐ目の前の一つが自分の考えに合わなければ、以前百の神の奇跡を体験していても、全く忘れてしまい、覚えていても偶然のことにしてしまう。これがまさに移り変わる肉の属性である。

聖書を読むと、時には愛なる神がノアの洪水やソドムとゴモラのさばきのように、公義を行わなければならない時もある。世でも口蹄疫や鳥インフルエンザにかかれば生かす方法がないように、霊的にも、罪と悪が限界に至ると、これ以上機会を与えることができなくなる。

だがこの時にも、神は「機会をたくさん与えたが、公義があるから仕方ないだろう」と簡単にさばかれるのではない。親が子どもをたたくとき、親の心にはアザができる。まして滅びに向かっている人の子らをご覧になる神の悲しみはどうだろうか。

<ローマ8:26>に「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」とある。聖徒が弱くて光の中に生きられないとき、心のうちにおられる御霊ご自身も言いようもない深いうめきで痛みを感じられる。

このように罪によってサタンに訴えられていろいろな試練や患難にあう子どもたちをご覧になると、神はご一緒に心を痛められた。数千年の歳月の間、神のお心にはこのような痛みが一つ、二つと積まれてきた。そのすべての痛みに耐え忍びながらも寛容を尽くされた父なる神の愛があったので、救われた人が毎日加わり、数えきれない天国の実が出て来ているのである(第二ペテロ3:15)。


3. 主にあって変えられることを信じてくださる愛である

寛容を尽くして待てる理由は、望んでいるとおりになると信じるからだ。農夫が豊かな実を刈り取ることを信じなければ、種を蒔くことはできない。親は子が立派に成長することを信じるので生む。一生貯めた全財産を事業に投資するなら、確かにその事業が成功することを信じるからである。だめになると思うなら、すべてをつぎ込むはずがないのだ。

神がルシファーの裏切りとアダムの不従順を耐え忍ばれ、ひとり子を十字架に渡すまで人間耕作の摂理を成し遂げていかれるのも、私たちが主にあって変えられることを信じるからである。イエス様がこの地上におられた時も、弟子たちはあれこれ弱い姿があったが、やがて彼らが変えられて殉教の使命まで充分に果たすことを信じたので、喜んで十字架を負われたのだ。

愛なる主は今も私たちが変えられることを信じるので、私たちの天国の家を備えて、そこで会う時まで、召し上がることも宴会を楽しむこともなさらず、絶えず私たちのためにとりなしの祈りをささげておられる。

愛する聖徒の皆さん、
神と主は絶えず炎のような御目で皆さんを守り、神の真実の子どもに変えられることを信じて期待しておられる。そして、多くの人が最も美しい天国である新しいエルサレムの主人公として出て来ることを疑わずに待っておられるのだ。

やがて主が再び来られる時まで、皆さんに向けられた神の期待と望み、またその待ちは変わらないはずであり、必ず成就なさるだろう。この愛を覚えて神の真実の子どもとして出て来て、終わりの時、神の摂理を充分に現されるよう、主の御名によって祈る。


 

 

 
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