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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

喜びの実

万民ニュース   第 158 号
3247
2015. 12. 27


堂会長イ・ジェロク牧師





「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(ガラテヤ5:22〜23)


イエス・キリストを受け入れた人は誰でも聖霊を賜物として受けて、神の子どもとして新しく生まれる。そして、御霊によって霊を生み、御霊に導かれて真理に従って行うほど、御霊の実を結ぶようになる。私たちの心に御霊の九つの実が豊かに結ばれれば、最も美しい天国である新しいエルサレムに入れる。

それでは、二番目の実である喜びについて調べてみよう。


1. どんな状況でもいつも喜んでうれしく思う喜びの実

「喜び」の辞書での意味は「よろこぶこと。うれしく思うこと」である。霊的な意味では、単に喜んでうれしく思うことではない。世の人も良いことがあると喜ぶが、問題が起これば喜びが消えてしまう。御霊の実である喜びが心に結ばれているなら、どんな状況でもいつも喜んでうれしく思うことができるのだ。

<第一テサロニケ5:16〜18>に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」とある。まさに喜びの霊的な意味は「いつも喜んでいて、すべての事について感謝すること」なのだ。

「喜びの実」は自分が正しい信仰生活をしているのかを簡単に測れる基準の一つである。ある人はうれしく幸せそうに主の道を歩んでいる一方、熱心に信仰生活をしているようだが、いざというと喜びや感謝はあまりない人がいる。ただ任されたことを無感動にしていて、何か困ったことにあえばすぐ平安を失って不安になり、いらいらする。ひょっとして大変なことが起こった時でも心から喜んでいるのか、自分を顧みてみるように。

神の子どもは救われた恵みだけでもいつも喜んでいられる。永遠に苦しみを受けるべきだった地獄の火から救い出され、美しい天国に入るようになったことだけでも、その幸せは言葉に尽くせない。主を受け入れたばかりの人は初めの愛の喜びで満ちている。すぐ明日の糧がなくても、いくら大変な仕事で疲れている時でも、口から賛美があふれる。主の御名によって迫害されたり、わけもなく困難にあっても、天国を思うと幸せになる。

ところが、現実として、初めの愛の喜びを維持している人が多くはない。歳月が流れれば喜びが消えてしまい、救いの恵みを思っても、以前のような感激が押し寄せるのではないのだ。つらいことがあれば、ため息と嘆きが出てくる。

それなら、どうしてこのように変わってしまうのだろうか?それは心に「肉」があるからだ。「肉」の代表的な特徴は「移り変わること」である。肉の属性を持っている人は喜びがあふれていても、ある瞬間に変わってしまい、喜びが消えるのだ。


2. 喜びの実を結ぶには

1)肉を脱ぎ捨てなければならない

心に「ねたみ、そねみ」という肉の属性がなければ、相手が祝福されてほめられるのを見ると、自分のことのように喜べる。しかし、ねたみ、そねみがあれば、相手がうまくいくなら心が穏やかでなくなり、自分は低くなるようなので、喜びを失って気を落としたり苦しんだりする。

また、心に「憤り」や「むなしさ」がないならば、礼儀に反することにあったり、被害をこうむっても、心が平安である。だが、自分の中に肉があれば、わかってもらえないからむなしくなって悔しくなり、そのため気が重くてつらくなる。自分の利益を求める心があるので、自分が他の人より損をしているようなので、悔しがって苦しむのだ。

このように肉があるかぎり霊の信仰を持てないので、神により頼むこともできず、憂いと心配が増えていく。事業をする時も、聖霊の声を聞けばすべてが栄えて祝福があふれるはずなのに、欲と焦り、肉の思いによって困難が生じる。私たちの心から肉を脱ぎ捨てるほど霊的な喜びと感謝が臨み、すべてにおいて栄えるようになる。

2)すべての点で御霊によって歩まなければならない。

私たちが求める喜びは世の喜びでなく、上から来る、すなわち、御霊による喜びである。自分のうちにおられる御霊が喜ばれる時でこそ、喜びと満たしを感じることができるのだ。神を心から礼拝して祈って賛美するとき、みことばを守り行うとき、以前とは違って真理に変えられている自分の姿を発見するとき、幸せで感謝するようになる。

私たちは暮らしの中で、御霊によって歩むこともあり、肉の願うことに従うこともある。だが、御霊によって歩むと御霊が喜ばれるので、私たちの中に喜びが満たされる。<第三ヨハネ1:4>に「私の子どもたちが真理に歩んでいることを聞くことほど、私にとって大きな喜びはありません。」とある。このみことばのように、私たちが真理に歩んでいると神が喜ばれ、御霊に満たされるようにして喜びを下さるからだ。

たとえば、自分の利益を求める心と相手の利益を求める心が戦い続けていると、御霊に満たされなくなる。そのうち肉に従って自分の利益を求めるなら、当座は良く見えるが、霊的な喜びは臨まない。かえって心が苦しくて、何か気が重くなる。反対に、相手の利益を求めるなら、肉的には自分が損をしているように見えても、御霊が喜ばれるので上から喜びが臨む。このような喜びは味わってみたことのある人だけがわかる。世は与えることも知ることもできない幸せである。

すべてにおいて同じである。前は自分の基準に合わせて相手を量っていた人が、心を変えて善をもって考えるほど平安になる。また、性格や意見があまり合わない人にも、自分から笑って、相手を安らかにしようと自分に対して死ぬとき、平安と喜びが臨むのだ。一歩進んで「誰々と性格が合わない」とか「あの人が嫌い」という感じさえなければ、一瞬一瞬平安と喜びを味わうことができるのだ。このように御霊に従うなら、霊的な喜びが加えられるだけでなく、心も真理にますます変えられる。そうするほど喜びの実がぎっしり実っていき、顔には霊的な光が臨むようになるのだ。

3)喜びと感謝の種をまめに蒔かなければならない

農夫が実を刈り取るためには、種を蒔いて刈り取る労苦が伴う。このように喜びの実を結ぶためには、喜びと感謝の条件を探して神にささげなければならない。信仰がある神の子どもなら、毎日喜ぶことがどれほど多いだろうか。

まず何をもってしてでも取り替えることのできない救いの喜びがある。また、すばらしい神が私たちの父であり、真理に歩んでいる子どもたちを守って、求めることは何でも答えてくださる。主日を完全に守って十分の一献金をことごとくささげるだけでも、一年中事故や災いにあわないようにしてくださる。罪を犯さないで、戒めを守って忠実に仕える人には祝福があふれる。

たとえ何かの困難に置かれていても、問題の解決方法がみことばにあるので感謝する。もし過ちを犯したなら、悔い改めて立ち返れば神の憐れみをいただくことができるし、自分の心に責められることがないなら、さらに喜んで感謝すればよい(第一ヨハネ3:21)。すると神がすべてを働かせて益としてくださり、さらに大きい祝福を下さる。

このように感謝の条件を探して喜ぶ時に、神はより多くの感謝の条件を与えられる。ますます感謝と喜びが大きくなって、ついに喜びの実を完全に結ぶことができるのだ。

愛する聖徒の皆さん、
最も美しい天国である新しいエルサレムに入るには、喜びの実を結んで、毎日喜んでうれしく思う生き方をしなければならない。御霊の九つの実を豊かに結んで、神が下さる最高の喜びを永遠に味わわれるよう、主の御名によって祝福して祈る。


 

 

 
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