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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

平安の実

万民ニュース   第 159 号
3159
2016. 01. 24


堂会長イ・ジェロク牧師





「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる
律法はありません。」(ガラテヤ5:22〜23)



まことに神を信じて愛する人はどんな状況でも、夫婦はもちろん親子、兄弟と隣人との間に平安をつくることができる。御霊の九つの実の一つである平安の実を結ぶには、どうしたらよいだろうか?


1. 神との間が平安でなければならない

神との間が平安であるために最も重要なのは、罪の壁があってはならないということだ。

最初の人アダムは神が禁じられた善悪の知識の木の実を食べると、神の御顔を拝することができなくなり、避けて身を隠した。不従順の罪によって神との間に平安がなくなると、前は近くて親しかった神が、その時からは恐ろしくて遠く感じられたのだ。

私たちも、真理にあって行う時は、神と平安であるので大胆になれる。もちろん、完全に平安であるためには、罪と悪を捨てて聖められならなければならないが、自分の信仰にあって熱心に真理を行う時は、神との平安を味わうことができる。人との関係で平安であるためにも、まずは神との関係で平安、すなわち、真理にあって平安を保っていなければならない。

たとえば、信仰のない家族と平安を保とうと、偶像の前で手を合わせたり、主日を守らなかったりするなら、しばらく家族との平安を味わっているようだが、霊的には神の御前に罪の壁を作って、平安を乱してしまったのである。結局、訓練と試練や患難を自ら招いたということなので、家族ともまことの平安を保つことができない。

したがって、人との間にまことの平安を保つためには、まず神に喜ばれなければならない(箴言16:7)。もちろん、自分のほうからは真理にあって最善を尽しているのに、相手が悪くて平安が乱されることもある。このような場合でも、最後まで真理をもって対するなら、神が働いてくださる。


2. 自分自身と平安でなければならない

悪はどんな悪でも避けて聖められてこそ、自分とも平安を保つことができる。心に悪があれば、状況と条件によって憎しみ、憤り、ねたみ、欲のようなものが煮えくり返るので、つらくて苦しい。また、真理の心と真理でない心が戦うと、本当に苦しくて悩むようになる。しかし、このような時も、火のように祈って真理を行い続けるなら、心に平安をもたらすことができる。

ある人は神と平安であろうと熱心に真理を行っているのに、心は平安でないことがある。真理にあって間違って作られた自分の義と性格の枠などのせいである。

たとえば、訓練を受ける前のヨブのように、熱心に祈ってみことばどおり生きようとしているが、まだ神の愛を悟っていない場合がそうだ。このような人は真理を行わないと懲らしめられるのではと恐れて、あせって行うので、真理を行わない時が一瞬でもあるなら、いじけて喜びを失ってしまう。だから、熱心に真理を行っていても心はつらく、信仰の成長も停滞するのだ。したがって、心で神の愛を悟るほど平安を味わうことができるのだ。

また別の例として、否定的な思考の枠のゆえに自分とも平安でない場合である。熱心に真理を行おうと努力するが、満足するほどの結果がないと、ひどく自分を責めて苦しみ、力を失ってしまう。このような人は霊的な子どもにならなければならない。

もちろん、公義に従って懲らしめられたり、しばらく低いところに置かれたりすることもある。それでも本当に神の愛を確信しているなら、懲らしめも喜んで受け、「私は完全ではないけれど、変えられようと努力すれば、神様は私を愛しておられるので完全にしてくださる」と信じなければならない。

また、神の御前に徹底的に低くなると、結局高めてくださる神を信じなければならない。すぐ人に認められようとするのではなく、真実の心と行いで真理の行いを積み上げればよいのだ。すると自分とも平安であるようになり、霊的にも大胆になれる。


3. すべての人と平安でなければならない

何より、まず先に自分を犠牲にしてこそ、すべての人と平安であることができる。そのためには礼儀に反することをせず、自分を目立たせたり自慢したりせず、相手を高めなければならない。また、どちらか一方に偏らず、真理にあってあれもこれも受け入れられる、融通のきく心だ。自分の信仰に合わせるのではなく、相手の立場で考えて合わせてあげる。たとえ自分の意見が正しくて良く思えても、真理でないことでなければ、相手の意見に従ってあげるのだ。このような平安を完全に味わうためには、相手のために自分を犠牲にするが、いのちまで渡せなければならない。

次に、すべての人と平安であるためには、自分の義と枠を主張してはならない。人はそれぞれ性分や環境、教育水準や信仰の量りなどが違うので、それぞれ正しい正しくないという基準だけでなく、良い悪いの基準が違う。整理整頓一つ見ても、夫婦が互いに自分を主張してしまうと、平安であることはできない。自分の立場、自分の基準でなく、相手の立場で考えて仕える時でこそ、平安であることができる。

神と自分との間が平安である人なら、人とも平安である。自分の欲と高ぶり、自尊心、義と枠を打ち砕いたはずなので、誰とも引っかかったり争ったりすることがない。仮に相手が平和を壊そうとしても、先に仕えて犠牲になれば、平安をもたらすことができる。

ところで、このような過程で悟るべきことがある。相手との平安が乱された場合、ひょっとして自分が知らないうちに相手を思いやれなくて、賢くない言葉なり行いで相手の感情を傷つけたのではないか、顧みなければならない。

また、まことの平安は心からでなければならない。たとえば、相手が自分に仕えて認めてくれないと、気に入らなくてむなしくなっても、直接表現はできなくて、遠まわしに相手を刺す場合だ。それとなく被害意識を表したり、時には口を閉じてしまうこともある。相手が悪くて我が強いので話ができない、と無視する心で後ろに引くのだ。

このようにうわべでは平安であるようでも、相手への感情が良くないから、その意見に心を一つにしないで、その人を近づけるのもいやなのだ。後で他の人にその人の過ちを言って、不快な心を現す。もちろん明らかに平和を壊すよりは、このようにでも平安を保とうとするほうがましだ。しかし、まことの平安を味わうためには、本当に相手に仕える心でなければならない。仕えられようとする心でいやいやながら我慢するのではなく、本当に相手の利益を求めて、相手の立場で理解しなければならないのだ。すると聖霊が働かれ、相手の心が動かされて変えられ、平和がつくられるようになるのだ。

神と自分、そしてすべての人とも平安である人には、闇を退ける力がある。<マタイ5:9>に「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」とあるように、そのような人には神の子どもとされた特権、光の力があるのだ。
たとえば、魂の救いの使命を受けた場合、みことばの権威と力をもって真理の糧を食べさせて、人々が罪から離れて義と枠を打ち砕けるように訪問して養うのだ。人々の間に争いを引き起こして、不平を言って分かれていくサタンの会衆ができる時も、みことばの権威で打ち砕いて平安をもたらすことができる。

愛する聖徒の皆さん、
イエス様は何の罪もなく犠牲になって死なれることによって多くの実を結ばれた(ヨハネ12:24)。誰でもイエス様に似せられて真理の心を持ち、すべてのことに犠牲になって仕え、自分に対して死ぬなら、多くの魂を神のみもとに導くことができるのだ。


 

 

 
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