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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

光の実_ 「神は光であって」シリーズ7

万民ニュース   第 200 号
1833
2019. 06. 23


堂会長イ・ジェロク牧師


「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。──光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです──」(エペソ5:8〜9)


喜びと感謝をもって暗やみのわざを明るみに出して光の中に出て来、真理の中を歩むことで光の実を豊かに結び、神に喜ばれるように。

天地万物を創造してご自身のかたちに人を造られた神は、すべてのものを美しく変えさせる力を持っておられる。無秩序と混沌を整然とするよう変えて、死の道に向かっていた人にはいのちを吹き込み、争いがある所には平和を与えてくださる。それで、イエス・キリストに出会った人々は以前とは違う真理の心、美しくて良い心を持つようになり、幸せで健康な生き方をするようになる。
に「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とあるとおり、キリストのうちにあれば、誰でも暗やみから出て来て、光である神の子どもとして新しく生まれることができる。神は光であるので、ご自身の子どもたちもまた、光の実を豊かに結ぶことを望んでおられる。
それでは、<エペソ5:9>に記されている光の実とは果たして何であり、どうすれば完全に結べるだろうか。


1. 光の実はあらゆる「善意」と「正義」と「真実」

まず「善意」とは「良くて悪意のない美しい心」を言う。たとえば、世に生きていていろいろ困難な問題にぶつかったとき、自分の利益を求めるのではなく、相手の利益を求めるのだ。かわいそうな隣人や病気の人、貧しい人に善を行って、害を及ぼさない。親の恵みを知って親に従い、創造主なる神の愛を知って、そのみことばに聞き従う。それだけでなく、他人に礼儀に反することをしない心なので、自分が属している社会の法規と秩序、他人との約束をよく守る。
この他にも、悪を行う人ゆえに不平を言わない心、自分を低くして人に仕える心、平和をつくって譲る心、欲がない心、自慢したり叫んだりしない心、真理を喜ぶ心などが「善意」に属する。
次に「正義」とは、一般に「人の道にかなっていて正しいこと。」を言う。しかし、真理にあっての正義とは、このような次元を超えて「神が約束されたみことばを信じること、みことばどおり聞き従うこと」を意味する。罪を捨てて聖書に記された戒めを完全に守っていくことと、すべての不義なことから自分をきよめること、いのちを尽くして忠実であることなどを言う。
この他にも、神のみこころに従ってその国と義を求めること、正しく節度ある行い、道理に背かないこと、正しいことについて意思を曲げないことなどが「正義」に属する。
最後に「真実」には三つの属性がある。すなわち「偽りがないこと、約束を守ること、どんな状況でも変わらない終始一貫した心」である。多くの人が約束をしておいても守らなかったり、口から出したことを行わないのは、真実の実が実っていないからである。しかし、真実な人はどんな状況でも自分が約束したことを守って、一度定めた心に変わることがない。
それなら、皆さんは以前の行いが変わりはしなかっただろうか。神を愛する心や魂を愛する心は日が経つにつれてすぐれていき、伝道もより熱心にして、祈りもより火のようにしなければならない。悪はどんな悪でも避けて、完全な善の心につくって、さらに明るい真理の光の中へと進まなければならないだろう。
私たちが真実で、良いこと、正しいことを変わらず行っていくと、神の祝福が臨む(ガラ6:9;ヘブ3:14)。また、善意と正義の実を完全に結ぶためにも、真実の実はどうしても必要である。


2. 主にあって光の子どもたちのように行うには

善意のある人は悪意がなくて美しく、いつも善を行う。物乞いする人にお金をあげたり、体の不自由な人の世話をして、他人がしたくないことを自ら進んでする。しかし、人がいくら善を行うとしても、その行いの目的や結果が善ではないなら、神の御目に善だとは言えない。
たとえば、他人のお金を盗もうとする人や怠けて放蕩している人に何かの助けを与えたとすれば、これは他の人にかえってより大きい被害を与えることもあるので、決して良い行いと言えない。したがって、良い行いが光の実として現れるには、必ずその中に正義、すなわち、神の義がともになければならない。神の御目に何がまことで正しいのかをわきまえ知って、みことばに頼って行わなければならない、ということだ。
ところで、善意と正義だけでは完全になれないのが見られる。これは、その中に真実が欠けていれば、結局益にならないからである。
たとえば、水害が出た時に、放送局などのマスコミで被災者を助ける募金をする。すると多くの人が隣人を助けようとする心で参加するが、時々有名人や企業主の中には、純粋な動機でなく、自分の名前を目立たせて自分の会社を知らせる目的で寄付したりもする。このような場合、人々はほめるかもしれないが、心を見る神がご覧になる時に真実が欠けているなら、光の実とは言えない。
したがって、主にあって光の子どもたちのように行って光の実を結ぶためには、神がご覧になっての善を行わなければならない。また、すべての善行は最後まで変わることがない真実があってこそまことであり、こうするとき、主にあって光の実を完全に結ぶことができる。


3. 主に喜ばれることが何か見分けなさい

<エペソ5:10>に「そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。」とあるが、これは光の実を結んで主に喜ばれなければならない、ということである。<詩篇37:4>に「【主】をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」とあるとおり、私たちが光の実を結んで神をおのれの喜びとすれば、心の願いと求めに答えていただけるので、何の乏しいこともない幸いな生き方ができる。
使徒の働き10章に記されているコネルリオは、多くの人に施しをする善行と親切の実を結んでいた。すなわち、善意の実が結ばれていたのである。また、ユダヤ人でなく異邦人だったのに、神について聞いたとき、一家あげて神を恐れかしこんだということは、正義の実と言えるだろう。施しをして祈ることにおいても、神の御前に届くまで変わらずしたので、真実の実も結ばれていたのだ。
このようにコネルリオは光の実が美しく結ばれていたので、神に喜ばれて、異邦人としては初めて、主の弟子であるペテロにバプテスマを受けて救われるという驚くべき祝福を受けた。
信仰の父アブラハムは生き方そのものが光の実で満たされていた。平和を追い求めておいのロトに先に良い地を取るように譲るかと思えば、知らない間に御使いをもてなすほど、いつも他の人に仕える良い心がすぐれていた。また、自分の物ではないものはもちろん、糸一本でも、くつひも一本でも取ろうとしない、きよい心の持ち主だった。
このようにアブラハムは良い心だけでなく正しい行いで神に喜ばれた。神が「…あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」(創12:1)と命じられると、どこに行くのかを知らなかったが、神のことばを完全に信じたので、そのまま従って離れる。また、現実的にはとうてい不可能でも、神のことばならば疑いなく信じた。すなわち、自分も妻もすでにみごもれないほど老いていたが、神が天の数えられないほどの星を見せて「あなたの子孫はこのようになる。」と仰せられると、そのまま信じたのだ。これを神は彼の義と認められた(創15:5〜6)。
人の思いではとうてい信じられないことだが、神のことばなので信じることがまことの信仰であり、現実を見ないでみことばを信じたこと自体が神の御目に正義になった。神へのアブラハムの信仰と行いはどんな状況でも変わらず揺るがなかったが、これがまさに真実に当たる。
百歳で得たひとり子を全焼のいけにえとしてささげなさいと言われたとき、つぶやくこともためらうこともなく、そのまま聞き従った(創22章)。だから、アブラハムがイサクを縛った後、刀を持ってまさにほふろうとした瞬間、【主】の使いが現れて「あなたの手を、その子に下してはならない。…今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。」と言う。この時、アブラハムは神がイサクの代わりにあらかじめ雄羊を備えておかれたことを知っていたのではない。これはアブラハムの心がどれほど真実なのかをよく示してくれる場面である。
このようにアブラハムに善意と正義と真実の実が豊かに結ばれていたので、神は彼を信仰の父として立て、神の友と称してくださったのだ。また、どこへ行こうがともに歩まれ、すべてのことに祝福を下さったので、乏しいことがないように満たしてくださった。完全に光の中を歩むとき、光の実を結んで、私たちの毎日に神に喜ばれている証拠が確かに現れるようになるのだ。


4. 光の実を結ぶには明るみに出して光のほうに出て来てこそ

<エペソ5:11〜13>に「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。」とある。
ここで言う「明るみに出す」とは、単に過ちを現す次元で終わるのではなく、光のほうに出て来るためにそうすることを意味する。光の実を結ぶためには、まず明るみに出して自分の暗やみを発見して捨て、光のほうに出て来る過程が必要である。
神が、罪を犯したダビデの罪を明るみに出して練ってダビデをさらに完全になさったように、愛する人であるほど真理に反することを果敢に明るみに出して正し、光の中にとどまれるように導くことがまことの愛である。
したがって、光に入りたいと思うなら、明るみに出されることを嫌ってはならない。心から感謝して喜ぶべきであり、現された過ちはみなすみやかに立ち返って、光へと出て来なければならないのだ。
ここで私たちが注意しなければならないことは、明るみに出すものの、主にあってしなければならないという点である。いくら全く同じようにしても、そうする人の心がどうなのかによってその結果が変わり得る。感情的に過ちを現すことは光の実を結ぶどころか相手の心をさらに苦しめてつらくさせ、状況をさらに悪くするだけである。かえって敵である悪魔が働くので、争いを起こすようになるのだ。また、感情的になること自体がすでに神の御前にふさわしくない姿なので、自分にとっても何の益にもならない。
したがって、暗やみのわざを明るみに出すことは、愛するがゆえに、そうしてでも罪を捨てて光の中に出て来るように助ける、仕えの心でしなければならない。

愛する聖徒の皆さん、
まことの愛は相手の過ちをただ覆うことだけではない。時には心が痛んでも過ちを明るみに出して正し、欠けていることは完全にさせることがまことの愛で、全き愛と言える。喜びと感謝をもってそれを認めて光の中に出て来て、ただみことばどおり行って光の実を結んで神に喜ばれるように、主の御名によって祈る。


 

 

 
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