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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9

万民ニュース   第 202 号
2364
2019. 08. 25


堂会長イ・ジェロク牧師


「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、…彼らの間で世の光として輝くためです。…」-ピリピ2:14〜16 -



光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。非難されるところのない神の子どもとなれば、世の人々の間で光として輝くだけでなく、いのちのことばをしっかり握って、キリストの日に誇ることができ、死の前でも喜ぶ信仰を持つことができる。

1. すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行うには
私たちが生きていきながら誰に対してもつぶやかず、疑わず、平和をつくるということは非常に重要なことである。そうするとき、世の人々の間で光として輝くことができる。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行うには、どんな心を持つべきだろうか。

1)非難されるところのない純真な心でなければならない

まず「非難されるところのない」とは、すべての面でそうだということである。もちろん、私たちの人生や身体、性格に何の非難されるところもないことはやさしいことではない。しかし、ひょっとしてそうであったとしても、すべての人類の生死禍福をつかさどられる神のことばを聞いて、改善させていけばよい。
聖書でこのような人の代表的な例としては、ダニエルが挙げられる。彼は人に対してだけでなく、神の御前でも非難されるところがなかった。ダニエルはユダ部族に属する王族出身で、ユダがバビロンの侵入を受けたとき、多くのユダの人々とともに捕虜として連れて行かれた。バビロンのネブカデネザル王はこのように捕虜となったイスラエルの王族か貴族の中から、王の宮廷に仕えるにふさわしい少年たちを選ばせる(ダニ1:4)。このようにダニエルとともに選ばれた少年たちは、三年間、王の食べるごちそうを食べて、王の飲むぶどう酒を飲むことになっていた。
ところが、ダニエルは王が指定した食べ物の中に神が禁じられた忌むべきものがあり得るので、このようなもので自分を汚すまいと心を定め、代わりに野菜を食べて、水を飲んでいた。このようにダニエルは少年期から神の御前に少しの非難されるところもなく行っていた。
神はこのようなダニエルに大きい恩寵を加えて、すべての人の上に高くなるようしてくださった。成長して国政にかかわった時にも、光と理解力をもって賢く行ったし、きわだってすぐれていて、ついに全国を治める大臣になる。するとこれをねたんだ者たちが訴える口実を見つけようと努めたが、何の口実も欠点も見つけることができなかった。これで彼がどれほど完全な人であったかが推察できる(ダニ6:4)。
次に、純真な心を持たなければならない。「純真」とは、辞書では「心にけがれのないこと。邪心がなく清らかなこと。また、そのさま。」という意味である。霊的には「柔和な心を行いとして現わすこと」で、傷がないと同時に、正しいことに対して完全に行っていくことを言う。
人の行い、性分と生き方などをご覧になって、悪のない清らかな心でその行いが完全ならば、神はこれを純真と言われるのだ。純真な人には必ずその行いに徳がある。人格がまことに清廉で、すべての生き方に品位があって、けがれがなく潔白である。
たとえ害になるような目にあっても、それに悪をもって報いず、良いほうに思いながら心に受け入れて、すべての面で自ら謹んで守り行うのだ。また、良くない言葉を口にしたがらず、悪い行動はもちろん、悪い思いさえもしないで、ただ光の中で生きていくのが見られる。
<ヨブ1:1>に「ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」とある。ヨブは子どもが十人だったし、所有も多くて東の人々の中で一番の富豪だった。周りに多くの善行を行ったし(ヨブ29:12,31:18)、自分が持っている知恵と知識で悟りを与えていた。
神はヨブの正しい行いはお認めになるほどだったが、その心の芯まで完全にするために試練に会わせられた。自分のからだを除いたすべての所有と子どもたちをあっという間に失ってしまうが、ヨブはなお、自分の誠実を堅く保っている。
ところが、今度は彼の足の裏から頭の頂まで悪性の腫物ができたのだ。この時も、ヨブは神に対して決して罪を犯すようなことを口にしなかった。しかし、その後絶望的な状況が続くと、結局ヨブの心の奥深く隠れていた悪が現れ始め、神は彼を火のように鍛錬して完全になさる。
このように私たちが言葉と行いとにおいて自分の誠実を堅く保っているなら、つぶやいたり疑ったりすることは当然なくなるだろうし、光として輝く。これがまさに神が望んでおられる姿なのだ。

2)曲がっていない、邪悪でない心でなければならない

まず「曲がった」とは、神が望んでおられる人の基本的な枠から外れていることを言う。たとえば、高ぶって争い、自慢して叫び、憤るなど、神が望んでおられる人の基本的な枠から逸脱していることを「曲がった」と言うことができる。
日が経つにつれて、多くの人が自分のからだを色欲の種にし、まことに低俗で聞くに堪えない話をし、良くない感情が簡単に表に現れ、それどころか殺人もはばからない。何を考えても、次第に「どうすれば楽しめるだろうか」と、あらゆる世の享楽を追い求める方向に向かうのだ。
服は色やデザインがまことに派手で、端正でない服がますます多くなり、化粧も唇に暗くてくすんだ色を塗ることがまるで洗練されているかのように言う。このようなことは曲がったことの断面であるだけで、この他にも、心と精神が神の望んでおられる人の基本的な枠からどんなに外れているだろうか。
次に「邪悪だ」とは、ここでは自分の分を越えて逸脱することを言う。たとえば、目下の人が目上の人に仕えず従わないとか、子どもがその親に従わないで逆らうことである。また、親は親らしく、子は子らしく行うべき道理に背くことを言う。
<創世記6:5〜7>に「【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで【主】は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして【主】は仰せられた。『わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。』」と仰せられた神のお心が理解できるほど、この世代が神に逆らっている。
したがって、曲がった邪悪な世代の中にあって、すべてのことを、つぶやかず、疑わずに平和をつくる、傷のない神の子どもとなって、世の光となるように、と託されたのだ。


2. いのちのことばをしっかり握って、キリストの日に誇ることができてこそ

ここまで、非難されるところのない純真な心、曲がっていない、邪悪でない心でこそ、すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行うので、暗い世代の中にあって光として輝くことができる、ということを説明した。このように傷のない神の子どもとなって、世で光として輝きながらするべきことは何だろうか。
<ピリピ2:16>に「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」とある。ここで「いのちのことばをしっかり握って、」とは、暗やみの中にいる人が神のことばによって光のほうに出て来るようにすることを言う。
ある人を伝道して聖霊を受けさせるまでには多くの労苦と忍耐が必要だが、いざとなってその人が何かの問題にぶつかって神を離れるならば、今までにしたことがむだになって水の泡になってしまう。それで、いのちのみことばをしっかり握らせなければならないというのだ。
たとえば、「すべての事について、感謝しなさい。」というみことばをしっかり握って、どんな問題にぶつかっても喜んでいて、信仰によって勝利できるようにして、「絶えず祈りなさい。」というみことばをしっかり握って、人生の問題について祈って解決されるように導くことで、喜びをもって主を信じ、信仰から離れないようにしなければならない。また、「敵を愛しなさい」というみことばをしっかり握って、すべてのことを受け入れて天国に行くまで勝利できるように導いてこそ、その努力がむだでなくなるのだ。
それでは、家庭ではどうすることがいのちのことばをしっかり握ることだろうか。信仰の家庭にあっても、いざひとりが病気になれば、神により頼まないで世の方法を使って治療しようとする場合が多い。ところが、家族の誰かが神の生きておられる証拠を証しして信仰を植えつけるなら、これがいのちのことばをしっかり握ることである。
家族が信仰によって決断して神にゆだね、愛の求めをするならば、神はその家庭に働かれるようになる。そして、神の力でいやされれば、信仰が弱かった家族も信仰が育つようになって、この知らせを聞いた親戚まで信仰を持つ良いきっかけになるのだ。
したがって、すべての事についていのちのことばをしっかり握ることで主にあっての努力が決してむだではなく、美しい報いとして積まれるように。


3. 注ぎの供え物となっても喜ぶ信仰になってこそ

続く<ピリピ2:17〜18>を読むと、使徒パウロは「たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください。」と言った。「注ぎの供え物」とは、供え物の上にぶどう酒を注ぐいけにえであり、注いだぶどう酒は形もなく消えるが、良い香りが放たれて、神がかがれるようないけにえとなる。
したがって、これは主にあって自分の努力がむだでないようにし、キリストの日に誇ることができる次元を超えて、最高の献身を告白しているのだ。
使徒パウロは神の国と義のために実にあふれるばかりに労苦した。<第二コリント11:23>以下を読むと、他の人たちより牢に入れられたことも多く、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばだったなど、数多くの迫害と困難に遭った。しかし、このすべての苦しみを意に介さず、すべての教会への心づかいがあるだけだった。
また、知識や家門などいろいろな面で優れた環境と条件を備えていたが、自分は使徒の中では最も小さい者にすぎず、使徒と呼ばれる価値のない者だと告白して、自分の労苦について後悔することもなく、どんな代価も望まなかった。彼の行く道が途方もないいばらの道であり、最後には斬首刑が待っていたとしても、「私は喜びます。あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください。」と告白したのだ。
このように、使徒パウロは主に出会った後の人生全体が、ただいのちのことばをしっかり握って走りに走って来た道だった。行ったとおりに報いてくださる神はこの地上であふれるように労苦した使徒パウロに、幻と啓示を通して天国についても明らかに見せてくださった(IIコリ12:1)。それで「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」(IIテモ4:7〜8)と告白できたのだ。

愛する聖徒の皆さん、
皆さんのうちに働いて志を立てさせた神のみこころを行うものの、すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行っているだろうか。使徒パウロのように傷のない神の子どもとなって、世の光として輝き、いのちのことばをしっかり握って、生き方すべての中で神の栄光が満ちるだけでなく、天国でも大きい報いを頂く幸いな聖徒になられるように、主の御名によって祈る。


 

 

 
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